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そして、会場には奄美島唄の継承者、朝崎郁恵さんが登場した。
朝崎さんは現在横浜で暮らしながら、奄美で引き継いできた島唄を広く伝える活動をしている。彼女は故郷の奄美で開催されるこの会議をとても楽しみにしていた。
「奄美で神歌でみなさんをお迎えする予定だったんですが、できなくなりました。奄美に行けなくてごめんなさい」
ああ、あなたが謝らないで。どんなにか残念だったでしょう。

この日私は彼女にインタビューさせてもらい、奄美の文化や子育てのことについてお話を伺っていた。

アイヌやネイティブアメリカンの人達と同様に、奄美にはもともと文字がなく、島の暮らしや文化は、唄と踊りで伝えられていた。もちろん楽譜もない。人から人へと直接伝え、体にしみ込ませて伝えていくのだ。

唄の内容は多岐に渡る。人間の魂を伝える深いもの、平家の落人達が残した和歌、親子の愛情や教訓を伝えるもの……。琉球や薩摩から侵略を受けてきた奄美には、その悲しい歴史を伝える唄もあるのだそうだ。そして、平家や琉球王朝のきらびやかな文化が入ってくる度、島の文化もその影響を受けて変化していった。こういった800年以上にも渡る歴史が、唄として残っているという。日本がなくしてしまった日本の文化がそこにあると、彼女は話してくれた。そして、それを引き継ぎ、歌っていくのが自分の天職なのだと。

子育てがテーマの取材だったので、朝崎さん自身の子育ての話や、これから先の子どもたちに伝えていきたいことも伺った。
「たくさん産みなさい」
「失敗してもいいから、精一杯愛情を注いで自分で育てなさい」
「子育ては一時期自分を犠牲にしないといけないけど、それは長くは続かない。女は子どもに育てられて母親になるのよ」
そんな、暖かくて強いメッセージをたくさんいただいた。中でも興味深かったのが、お母さんと赤ちゃんのスキンシップの話。

「だっこやおんぶがとても大切。赤ちゃんとお母さんの心臓の音が重なると、赤ちゃんは子宮の中にいるみたいに安心するのよ。風邪も早く治りますよ。寝かせる時はおんぶするのが一番ね」
なんてことを話してくれたのだけど、これは、前日に聞いたグランマザー マーガレットと同じだった。やっぱり西も東も人間の仕組みは同じなんだ。経験者からの言葉は大きい。読者も励まされることだろう。

そして最後に、素敵な言葉を贈ってくれた。
「3歳までたっぷりと愛情を注ぎなさい。それは子どもに伝わるし、愛情を受けて育った子どもは、親を放っておいたりしないでしょう。孫達の時代には平和であって欲しいし、世の中がいい人達でいっぱいになって欲しい。世界を変えるにはまずは親が目覚めなきゃ」
子育てを通じて女性は世界をつくることができる。朝崎さんとの会話から、私はそんなインスピレーションをいただいていた。

そして神歌から始まった彼女の唄は、本当にすばらしかった。しんみりとした曲から、陽気なメロディー。最後はカチャーシーで会場中が踊り出し、奄美の文化と祈りの暮らしを垣間みることができた。因に彼女の衣装は奄美のシャーマン、ノロの衣装で、芭蕉布の生地でできている。△は女性を象徴したもの。いのちを生み出す女性は昔、神と考えられていたのだそうだ。生命の尊さと神秘を感じさせるお話だ。

そして夕べの祈りには、米国サウスダコタ、ラコタ族のグランマザー ベアトリス・ロングビジター・ホーリーダンスのパイプセレモニー。これには、ラコタに通いつづけている日本人のシャーマンでミュージシャンのHIROさん達も参加。いっしょにパイプを回していた。

メディスンウーマンのベアトリスさんは、80代になった今も、訪問医療を続けている。娘さんの運転するトラックで毎日村を巡回しているのだそうだ。そして子どもは血縁がつなぐコミュニティ「ティーオシパイエ(TIOSPAYE)」で育て、儀式やストーリーテリングを通じて、伝統的な暮らしや生き方などを伝えていく。こちらも人から人へと直接伝えていく文化。こういった伝承の仕方は文字にして伝えるのとは違い、その本意が深く自分の物になっていないと伝えるのが難しいと思う。逆にそのハードルが、より強い継承を可能にしてきたのだろう。ラコタ族の伝統の儀式、サンダンスにも参加しているHIROさんは、そんな温かい絆にも魅かれていたようだった。

パイプセレモニーはネイティブアメリカンの大切な儀式で、パイプに煙草をつめ、4つの方角(東西南北)、母なる地球、父なる宇宙に向かって、祈りをささげていくもの。パイプから煙を吸い込み、祈りを込めてそれを吐き出すと、煙は空中にのぼっていき、ワカンタンカ(創造主)のところに届くといわれいてるのだそう。娘さん、お孫さんと一緒に来日されていたベアトリスさんは、静かにこの儀式を行っていた。その様子を見ていると、揺れていた心が少し、静かになるような気がした。

こうして儀式が行われている間、聖なる火は灯し続けられている。それを守るファイヤーキーパー達は忙しく働き、そして日に日に輝きを増していた。道場仲間のミノル君、サンタ君、ケンさんの3人は、薪の調達をしたり、場所を整えたりで、スチュワートさんと一緒に朝早くから夜遅くまで動き回っていた。彼らも火に育てられ、ファイヤーキーパーになっていっているのだろう。テツさんはグランマザー達の経済支援につながる物販、ノッチは受付、という風に、それぞれが自分の仕事を見つけ、活動を始めていた。

私も午前中に編集部にメールを送り、そろそろと仕事モードに切り替わっていた。のだが突然、驚くようなニュースが入ってきた。ホストグランマザーのクララさんとゆかりさんが明日奄美へ行くというのだ。アメリカ側との話し合いで、明日はプレス用にインタビューの時間を取ってもらえることになっていた。しかもクララさんにメインのお話を聴くことになっているのに、奄美に行くならそれができない。おいおい、頼むよ、ちょっと待ってー。

といいつつも、澄み渡る海の写真が届く程快晴の奄美大島。私も実は行きたくて仕方がない。クララさんが行くなら私も行こう。心は決まり、食堂で彼女を見つけてどうするかを聞いてみた。すると彼女は2、3歩後ずさり。
「行くかどうかは言えない。私が行ったらみんないきたがるでしょ。会議が終わってからも私は日本にいるし、インタビューはそれからではダメ?」
かなりうろたえている。それはそうだろう。実際私も一緒に行こうとしているんだから。いつもならOKといいそうな約束の申し出なんだけど、この人を会議の後で捕まえるのは、本能的にダメだと思っていた。以前ゆかりさんに彼女のスケジュールを聞いた時、呼ばれているところがたくさんあるから、どこで時間をとれるかわからないと聞いていたから。何より直感で、明日を逃したら、ゆっくり話を聞く時間はないと思っていた。だから、どうしてもつかまえておきたかった。

結局その夜のグランマ達の話し合いで、二人は霧島に残ることになった。

この出来事は一見、勝手な行動に見えるかもしれない。だけど、現地の人達の歓迎を受けながら準備を進め、好意を肌で感じてきた彼女達にしてみれば、現地で働いてくれているスタッフや地元の協力者に一度も顔を見せないで終わるのが忍びなくて仕方がなかったのだろう。実際、会場の奄美パークには、何人かのゲストや本土からのお客さんの他、現地の方々が足を運んでくれていた。その思いに、少しでも応えたいと思ってのことだっただろう。

こういった急展開が次々に起こるグランマ達の集まり。それぞれが自分の試練に立ち会いながら、変化に流されることなく、そして過去に執着することなく、前に進もうとベストを尽くしていた。
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この日、奄美大島へ向けて飛び立った人が何人かいた。ヒロスケ君や、ゲスト出演する大和語りの大小田さくら子さんなど数人が10:50分発のスカイマーク便に乗っていたのだけど、なんと飛行機に落雷。乗客は鹿児島空港へと引き戻されていたのだ。しかし、行くと決めていた二人は振り替えのJAL便に乗り換え、そのまま奄美へ飛んでいた。神様は奄美への道をそう簡単には開いてくれそうもない。自然は何を伝えているのだろう?

悪天候の鹿児島では、この日も天候が優れず、本来なら聖なる火を囲んで行う祈りの儀式も、屋内でやらざるを得ない状況になっていた。そんな中、お昼を挟んで登場したのは、アイヌの伝統文化を守り、密かに娘達に伝えてきた遠山さきさんと3人の娘さん達だった。

以前北海道に旅したとき、アイヌのシャーマン、アシリレラさんのお宅にお邪魔させていただいいたことがある。レラさんはシャーマンであり、アイヌ語や刺繍などの伝統文化を教える先生であり、社会活動家。二風谷の彼女の家には預かっているアイヌの子どもたちが何人もいたり、アイヌの文化を学びにきた本土の若者達がいたり、行き場なくやって来た人がいたりと、まるで大家族。ビッグママという呼び名がピッタリのあったかい女性だった。

レラさんは北海道だけでなく日本各地に招かれて祈りの儀式をとり行ったり、伐採で森が破壊されたタスマニアで祈りを捧げたり、G8やCOP10で少数民族の抑圧を訴えたりと、多彩な活動を展開している。彼女の家の近くには、アイヌ民族研究家で参議院議員だった萱野茂の個人コレクションを展示している「萱野茂二風谷アイヌ資料館」があり、民具や衣装などと共にアイヌの暮らしが紹介されていた。

その中の一枚の写真に、私は釘付けになった。写っていたのはアイヌの伝統的な衣装をまとった若い女性達。顔には入れ墨が施され、何人かは口割き女のように、頬の半ばまで唇が大きく描かれている。どうしてこんな入れ墨が? 不思議に思い写真の下の解説に目を通すと、こんなことが書かれていた。
「美しい者は日本人に襲われるので、娘達は顔に入れ墨をして身を守った」
だから少女達がこんな顔に?  信じられないくらいの悲しい出来事に、涙が出そうだった。私の頭の中で、アイヌの悲しみと、南京大虐殺や従軍慰安婦の問題がつながっていた。

そこで私は初めて、彼らが受けてきた暴力と抑圧と搾取の歴史、そして差別をリアルに感じ、理解することができた。新しくきた大和の人達は、文字を持たない彼らにつけこんでアンフェアな契約書をつくり、土地を奪い、シャケの取引を決め、伝統的な暮らしを奪うと同時に、日本語教育で文化を壊していった。そして何より、アイヌとしての誇り、自信を粉々にしていった。自分がアイヌだというのが恥ずかしい、だから隠して生きている。そんな悲しい歴史をうんだのは、私たち日本人のせい。だけど、そのことを私たちのほとんどが知らない。彼らは2008年にようやく、先住民族として認められたばかりなのだから。
アイヌの歴史は、アメリカ先住民が西洋から来た人々から受けた侵略の被害と同じように思えた。侵略と略奪はよその国だけのことではなかったのだ。

遠山さきさんはシャーマンではなく、普通のおばあちゃん。彼女はアイヌの暮らしを伝えていくために、娘達にこっそりと唄や踊り、暮らしに根付いた文化を教えていた。きっと、辛いこともたくさんあったと思う。そこに今、光が射し始めていた。

3人の娘さんのうち、長女は千葉県に、次女と三女は北海道でアイヌの暮らしを継承している。長女の弓野恵子さんは、初日の自己紹介でこんなことを話していた。
「昔はアイヌが嫌でしたが、今はアイヌの文化が大好きです。こうしてここに来られたことを、母に感謝しています」
何かが変わり始めていた。そして、先住民の苦しみや悲しみを背負いながらも、世界のために祈りを捧げるグランマザー達や、会場に集まった100人を越える人達の前で、4人は唄い始めた。

しばらくすると、会場から歓声が上がり、参加者達が窓辺に駆け寄り始めた。
その視線の先には、小雨になった空に浮かぶダブルレインボー!
会場に歓喜の渦がわき起こった。何人かが遠山さんに駆け寄り、彼女をぎゅっと抱きしめていた。口々に「ありがとう!」と言いながら。

分厚い雲の切れ間から差し込む太陽の光は本当に暖かく、すべてがきらきらと光輝いていた。空も雲も雨粒も、そして集まった人達の顔も。さきさんは顔をくしゃくしゃにしながら笑い、唄い、娘さん達は踊りを続けた。
希望に満ちた、幸せな時間。

会議が終わってから所用でさきさんにお電話させていただくと、会議のことをとても喜んで話してくださった。
私は、今までアイヌの文化を守り、伝えてくれてありがとうとお礼を言った。すると彼女はにこやかな声でこういうのだった。
「これでようやく本物ねぇ」
その言葉には、やさしさと大きな愛が詰まっていた。逆境に絶え、信念を貫いた者だけが持つ、真の強さと優しさがあった。これもまた、母性。

大きな愛が生み出した、虹の祝福だった。
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24日。

会議は1日遅れで進行していった。今日から本格的な祈りの儀式が始まる。
祈りは1日3回。朝(9:00-10:00)、正午(12:30-13:30)、夕べ(1800-19:00)で、その間に話しあいやパフォーマンスが予定されている。祈りの時間を改めて書いてみてびっくり。もっと長かったような気がしていた。それくらい、濃かったのかもしれない。

*この日の大まかなスケジュール
朝の祈り、グランマザー アンマ・ボンボ、
薬草についてグランマ達のトーク
昼の祈り、グランマザー モナ・ポラッカ、
遠山さきさんと娘さん達のアイヌの歌と踊り、朝崎郁恵さんの奄美島唄
夕べの祈り、グランマザー ベアトリス・ロングビジター・ホーリー・ダンス

祈りはひとりひとりスタイルが異なる。アンマ・ボンボさんは伝統的な衣装を見に付け、頭にはクジャクの羽でつくった冠をかぶっていた。会場を清め、ひとりひとりの手に花でお酒をつけて祝福を与える。その後彼女はトランスし、中に神様が入ってメッセ—ジを伝えていた。ネパール語なのでその内容はわからないのだけど、時折カーリー、ハヌマン、シバ、などの神様の名前を口にしていた。ネパールの土の香りがしそうな、アジア的な空気が流れる。シーンとした中にもあたたかさを感じるのは彼女のキャラクターのような気がする。ネパール語から英語への通訳は同行したお孫さんが務め、それを翻訳スタッフが日本語にするダブル通訳。フエリタさんはスペイン語、他のおばあちゃん達も時折英語から部族の言葉にしてもらったり、英語でサポートしてもらったりしていた。クララさんも時々ポルトガル語。

薬草の話の時間は朝崎さんのインタビューで聞けず。朝崎さんのお話はほろりとくるいいお話だった。

そして、モナさんの祈り。彼女は同じハバスパイ族のストーリーテラー、ウクワラさんと一緒に祈りを捧げた。彼の太鼓が場の空気をスッと祈りのそれへと変え、彼女は静かに祈りの言葉を話し始めた。その内容は詳しくおぼえていないのだけど、日常の心のことを話していたように思う。そして奄美へ祈りを捧げていた。だからだろうか? なんだか空気が穏やかになったような気がして、それまで私の中にあった詰まった感覚が溶けていくようだった。平和な気持ちが広がっていく。

そしてこの後のアイヌの唄と踊りで、ミラクルが起こった。
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10月23日。満月。

この日を楽しみにしてきたのは、私だけではなかっただろう。奄美の海を眺めながら、聖なる夜を聖なる火とグランマ達と一緒に過ごすことに期待と喜びを感じていた人は多かったに違いない。だけれど空は相変わらず雲が厚く、月までぬける宇宙が見えるかどうかはわからない。今頃奄美はどうなっているんだろう? そんな思いを抱えている人は多く、この日もいろんな人の会話の中に「奄美」という言葉が頻繁に登場していた。

奄美では予定通り、昨日聖なる火がおこされたらしかった。そして、奄美に渡っていた普門寺から届いた平和の火(福岡県星野村で灯し続けられてきた、広島に落ちた原爆の残り火)が、フェリーで鹿児島へやってきた。この火と一緒に、ファイアーマンのスチュアートさん、友人のayakoもやってきた。彼女は19日頃から奄美に入っていて、豪雨の間は携帯にも連絡がとれない状態だった。タフな人なので心配ないとは思いつつも、21日の嵐の合間をかいくぐって届いたメールを見て、ほっとしていたところだった。英語が堪能な彼女は、ステージまわりのケアをすることになっているらしく、そのためにこちらへやってきたらしい。奄美にはまだスタッフ達がいて、現地に来たゲストとお客さん達とセレモ二ーを続けることになっていた。

こうしてちりじりになっていたものたちが揃い始め、昨日の開催中止の情報で一旦ご帰宅された天川神社の宮司さんも霧島へ再度戻っていらっしゃって、なんとかセレモニーを開催することになった。なによりすごいのは、嵐の中、そしてろくに情報もないにもかかわらず、お客さん達が集まり始めていたこと。来ると決めた人達はやっぱり何があってもくるんだな。これも縁というかなんというか、世の中、やっぱりなるようになっている。

そして午後13時をまわったころ、ホテルの一階ロビーの脇のラウンジにグランマザー達が集まり、会議の開催のあいさつと自己紹介が行われた。

顔を揃えたのは、次の3人を除く10人。アフリカのガボン、オミエンネ族のグランマザー・ベルナデット・リビノ、チベットのグランマザー・ツェリン・ドルマ・ギャルトン、そしてアラスカ、ユピック族のグランマザー・リタ・トゥピカ・ブルーメンスタインたちは体の調子や家族のことで今回は来日できなかった。しかしユピック族からはリタさんのサポートをしているマリー・ミードさんが参加していた。

その他のおばあちゃん達を紹介しておこう。おばあちゃん達はアメリカ大陸の婦ネイティブアメリカンの人達が多い。
まず、この会議の議長である最年長のグランマザー・アグネス・ベイカー・ピルグリムは西海岸オレゴン州のタケルマ・シレッツ族の長老。そして内陸部でバッファローを追いながらティピを建てて移動生活をしてきた部族からは3人が参加している。サウスダコタ州のラコタ族からは、グランマザー・リタ・ロングビジター・ホーリーダンスとグランマザー・ベアトリス・ロングビジター・ホーリーダンスの姉妹、その北西にあるモンタナ州から、シャイアン族とアラパホ族の血を引くグランマザー・マーガレット・ビハン。アリゾナ州、グランドキャニオンの麓で暮らすグランマザー・モナ・ポラッカは、ハバスパイ族、ホピ族、テワ族の血を引いている。その隣のニューメキシコ州からは、マヤ族のグランマザーフロルデマヨ。
さらに南に下ったメキシコからは、マサテコ族のグランマザー・フリエタ・カシミロ、ブラジルのアマゾンの森の中のコミュニティで暮らす二人、グランマザー・マリア・リースィーとグランマザー・クララ・シノブ・イウラ。マリアさんは黒人、アマゾンの先住民、白人などいろんなルーツを持つ。一方クララさんはブラジルに移住した日本人の両親の元に生まれてブラジルで育った。なので彼女は日本語とポルトガル語を話す。今回のホストだ。日本にいる程に自分のルーツがここにあることを強く感じてきているのだそうで、その思いが今回の日本での開催につながった。最後に紹介するのが、ネパール、タマン族のグランマザー・アンマ・ボンボ。数少ないアジアからのグランマザー。彼女とクララさんの祈りにはトランスが起こり、神様からのメッセージを言葉と体で伝えてくれるのだそうだ。

13人のグランマザープロフィール
アメリカの地図

そしてこれに奄美島唄の朝崎郁恵さん、アイヌの遠山さきさんと3人の娘さん、ライアー奏者の池末みゆきさん、普門寺住職の藤本恵祐さんが日本の代表として彼女達を迎えた。奄美出身の朝崎さんは奄美の神歌を一節歌ったあと、奄美にいけなくてごめんなさいと謝っていた。本当に残念で、そして心配なことだろう。そして長い迫害を受けてきた中で、アイヌの伝統的な暮らしと文化を娘さん達に伝えてきた遠山さきさんは、こうして世界からきたおばあちゃん達と会えたことがうれしいと、涙を流しそうになりながら話していた。

ところでみなさん、なんでいつものように写真がないんだとお思いかもしれないけど、実はアメリカ側の主催団体CSS(The Center for Sacred Studies=聖なる学びのセンター)の規制によって、撮影が固く禁じられていたためにグランマ達の写真ほとれず、そして一切アップできないんです。ごめんなさいね。
実はこれについてはいろんな経緯があった。儀式は撮るものではないというのはわかるのだけど、それ以外も全くNG。個人的に話して写真を撮るのもダメ!!と言われ、その理由もさっぱり説明されず、そこまでやらなくても……とか、話が違いすぎる!とか、かなりこのやろうな状態で、私的には前半はかなり憤慨していた(いやあ、ほんとにあんまりな対応だった)。それで、会期中にもその後にも幾度となく話し合った結果、グランマ達が望んでいないのだから、とらないで欲しいし、公にはしないで欲しい。日本側のスタッフが一人オフィシャルカメラマンとして撮影するから雑誌にはそれを回せるようにするということになって一段落。それで、こちらも掲載しないという約束を守ることにしている。
こんなとき、メディアじゃなかったら知らずにアップしちゃいました、なんてできるのになあなんて思いつつ(笑)、話しあってきた以上は従うしかないのですよね。最初はかなり腹立ったけど、おかげさまで儀式に集中できてまあ、別の楽しみも生まれたのでよしとしておこう。

そして17時過ぎ、天川神社の柿坂神酒之祐宮司さんによって火の儀式が行われ、クララさんの祈りが始まった。グランマ達は火のまわりを東から時計回りに進んでそれぞれの祈りを捧げた。それが終わった頃、火の中に空から何かが入ったようながした。エネルギー、スピリット、精霊、魂……。どんな言葉で表現されるのかはわからないけど、なにかいのちあるものがその中に入り、火に息吹が生まれたようだった。
「だから聖なる火なんだね」
私の口からは自然にそんな言葉が流れ出ていた。

夜になると雲が引き始めた。
露天風呂から見上げた空には、木々の間から満月が覗いている! 
強い光と空を抜けていく風が、新しく始まった何かを祝福しているようだった。

そして一息ついた頃、私たちはロビーで道場メンバー達を待っていた。するといろんな人達が集まってきて、現状について話していた。その中で、昨日から受付の電話(スカイプを転送している)を受けていた女性がこんなことを話し始めた。
「こちらの状況がわからなくて、お怒りの方が多いわよ。このままじゃ終わってから大変なことになるから、今からでもなんとかしないと」
私も現地に来た人から苦情を聞いていたこともあり、その言葉はスルーできなかった。
そこに日本側の主催団体「いのちの環」の代表・龍村ゆかりさんがやってきた。
彼女は今日、クララさんからも、「気が狂いそうになりながら頑張っている」と紹介されたところ。ホントにここまで着地させるのは大変だったことだろう。リアルタイムでの経緯説明と決定事項の伝達が遅れていることが最大のネックだという話が出ると、
「名古屋から移動してくる中でずっとまともに通信できる環境じゃなくて。さらにPCに無線LANが入らなくなっちゃって、自分のPCでブログの更新もできないのよ」
さらに、変更に継ぐ変更への対応で精一杯で、落ち着いて文章を考える余裕もないようだった。
「わかりました。じゃあ私が書くので、名古屋から霧島までの経緯を教えてください」
こうして急きょ、私が代理で文書をまとめ、ブログ記事を作成することになった。聞いていると、この怒濤の流れを冷静に整理して文書にまとめるのはかなり大変な作業だ。ホントに気が狂いそう。しかもやっているうちに次のやるべきことがどんどん起こってくるのだから、たまったもんじゃない。ゆかりさんはさぞかし疲れたことだろう。

そこでわかったのは、グランマ達は7日間ここに留まって火を守り、祈りを捧げること。私たちは公開会議後なら移動できると勝手に思っていたのだけれど、一度つけた火はたき続けなければいけないらしい。だから霧島からは動けない。これがおばあちゃん達の決定だった。
そして、事態もそれにあわせて動き始めていた。奄美での宿泊場所はキャンセル。予定していた食材は現地の救援物資として寄付され、現地に入っていたスタッフ達はツアーを受け持っていた旅行会社で問い合わせの対応をしたり、受け入れ体制を整えたりして、献身的に動いてくれていたそうだった。
ここでやっと、全体のあらすじが見えてきた。日本側には決定権がなく、アメリカ側、グランマと話し合わなければ何も進まないのだ。今までの混乱や情報公開の遅れもそのために起こっていたのだった。

まあまあいろいろありながらも、そんなこんなでようやく話がまとまり、記事がアップできたのは夜中の二時だった。悪いなあと思いつつも、明日奄美へ発つヒロスケ君を引き止め続け、なんとか車で道場まで帰ることができた私たち。その後も、道場でひそひそいろんな話をしていた。
ヒロスケ君が奄美へ行きたい理由はシンプルだった。穏やかな気持ちで祈りたい、楽しい気分で笑いたい。
そのために、離れたところで悶々とするのではなく、現地へ行ってできることをしよう。必要なら救援活動をしたい。そんなことを話していた。

私も奄美へは行きたい。だけどまだここでやるべきことがある。もう少し留まって様子をみることにしよう。
明日からいよいよ本格的な祈りが始まる。
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バックパッカーズのすぐそばには、月読神社があった。天照大御神の弟とされる月読は夜を司る神様。男神だけれど、なんとなく女性的な雰囲気を感じる月の神様。さて、世界各地から集まってきた地球の女神、グランマザー達は無事鹿児島にやってくるのだろうか?

22日、鹿児島は太陽をやさしく遮る程度の薄曇り。これならグランマ達も飛べるだろう。

ここに集ったボランティアスタッフたちはみんな火の番人。会期中、24時間火を絶やさず焚き続けるために集まった人達だった。お客は私とミーナだけ。スカイマークで鹿児島→奄美のチケットをおさえていたヒロスケ君とミーナは一足先に空港へと向かった。スカイマークは朝10時50分発の一日一便しかない。web予約でなぜが鹿児島→奄美を見つけられなかった私と他の人達はJAL。それぞれ今日の午後の便を予約していた。この時点では誰もが奄美での開催を予想していたから。

しかしフェリーが動いた後、ミノル君にかかってきた電話で事態は急展開。今日奄美へ入るかどうかは未定だという。急いで先に出た二人と連絡をとり、鹿児島側のフェリー乗り場で合流することにした。どうやら日本側の受け入れ団体は、グランマ達が滞在できるホテルを鹿児島で探しているらしい。奄美はまだ、空港さえも電話がつながらない状態だった。現地に入っているボランティアスタッフとは何とか連絡がとれ、開催地は被害がほとんどないことは確認できたようだが、車いす利用者を含むおばあちゃん達を連れて行くかどうかの決断には、さすがに勇気がいるだろう。ひとまず鹿児島で宿泊し、グランマ全員が揃ったところで再度話し合う、という流れになったようだった。

私たちは最初、その霧島のホテルへ向かう段取りをしていたが、スタッフそれぞれが忙しく動いているために連絡をとる度入ってくる情報が違い、動きを見定められないでいた。みんないっぱいいっぱい。
だったら、空港に行って昨日のように到着した人達を出迎え、お客で来た人とお金のない人達が泊まるホテルを探してナビゲートした方がいいんじゃないだろうか? どちらにしても人は足りない。そんな風に意見がまとまり、再び鹿児島空港へ行くことになった。今の情報が錯綜している状態で、土地勘のない鹿児島で一度ばらけてしまうと再び合流するのが大変になる。ひとまず全員で空港へ移動して、自分達の泊まる場所も含めて情報を集めたほうが役に立つ。

そして空港へ着いてみると、奄美行きの飛行機が飛んだのは午前中だけで午後の便は欠航。さらに、現地に入ったとしても帰りの便がいつ出るかわからないという。全員フライトの予約を入れるのをやめてオープンの状態にしておくことにし、受け入れ準備に取りかかった。観光案内コーナーで地図をもらい、安いロッジも見つけた。再びサンタ君が友達の縁から安い湯治場を紹介してもらい、その二カ所で受け入れ対応をしようということになった。グランマ達の滞在先は霧島ロイヤルホテルに決定。その他のお客がどれくらい受け入れてもらえるかはわからないが、とりあえずこれで何とかなりそうだ。そのうちに地元の方で、自分が所有している建物を利用させてくださるという申し出があった。しかもロイヤルホテルからは車で5分程。温泉宿・野乃湯は車で20分。これはありがたい。スタッフとして動く人達はそちらに泊まってもらえる。

そうこうしているうちに、人が到着し始めた。昨日空港であった人達、東京からの人、大阪からの人、そして、名古屋のcop10会場からグランマ達とスタッフ約60名が到着。到着する度にレストラン二案内したり、宿の振り分けをしたり、、、、私もいつの間にかボランティアスタッフと化していた。こういう時、ついつい日頃のクセが出る。ボランティアをやりすぎると、動かないでいる方が落ち着かない。緊急事態で何の打ち合わせもない状態なのに、何となく無言のうちに役割分担ができ、それぞれが自分のできることを提供していた。レンタカーを借りてゲストの人達を送迎する人、団体の荷物の置き場を段取り、レストランへ誘導をする人、滞在者名簿をつくる人……。

そして最後のロイヤルホテル行きの団体をバスに乗せた頃には、空が夜色に変わり始めていた。あーー、ようやくおちついてお茶を飲める。あとは野乃湯からの迎えの車に乗り込んだ最後のお客さん達を見送るだけ。そしてそれも終わった後には、お腹の底から息が出ていた。はーーーーー。脱力。

そんな私たちを迎えにきてくれたのは、うさぶろうさんと鬼さんだった。うさとというオーガニック&フェアトレードの洋服をつくっているうさぶろうさんとは、昨日空港で顔を合わせていた。彼らは鹿児島で開かれていた田中一村の展覧会を見に行っていた。それを聞いた私は激うらやましがったのだった。ああ、私も知っていたら見に行っていたのに。残念。奄美にある作品の中から大作が展示されているのだそうだった。
うさとさんはこの急展開を知り、素早く動いてホテルや車の手配して強力にサポートしてくれていた。この日の動きもちゃんと見ていて、最後まで残っていた私たちを、地元の方と一緒に迎えにきてくださったのだった。鬼さんは宿を提供すると申し出てくださった方で、霧島にあるご自分の道場に私たちを泊めてくださることになった。鬼さんの車にすし詰めになって乗り込み、空港から一路霧島へ。

「途中においしそうなそば屋があったんですよ。そこへ行きましょう。私がごちそうするから」
うさぶろうさんの言葉に感激の声を上げる面々。ああ、やっとご飯だー。街道沿いにある古民家風のそば屋はおいしくてその上ボリュームたっぷり。そば、うどん、天ぷら、デザートと、すっかりごちそうになってしまった。なにより、自分達がやったことをねぎらってくれる、その心がありがたかった。

そしてロイヤルホテルでスタッフミーティング。ひとまず明日聖なる日を焚いてセレモニーを始めることが決まったそうだった。奄美に入っているスタッフとゲストもいるので、奄美でも一緒に火をおこし、場をつくっていくことになったようだった。ボランティアスタッフ達は、今まで決まっていたこともあるけど状況にあわせて臨機応変に動いていこう、協力し合って乗り切ろう、と意識をあわせた。

鬼さんの道場はとても気のいいところだった。何でも建物の下には、3tの炭が埋められているらしい。一階の床にいるとすーーっとした空気が伝わってきて、疲れが取れる感じがして気持ちがいい。ここで寝たい! 私たちは2階から布団をおろして、再び床で雑魚寝していた。
昨日のメンバー、火の番のヒロスケ、サンタ、ミノル、のっち、ミッチー、それからミーナと私に加え、名古屋からやって来た哲さん、大阪から来たクリちゃん、東京から来たジュンコさん、スイスから来たローラが加わり、11人になっていた。ローラは昨年末のセドナでの会議にも参加していて、今回初めて日本へやって来た。空港ではロイヤルに泊まると言って先に出たようだったが、私たちと一緒に道場に泊まることにしたようだった。
このメンバーが、相当おもしろく、毎晩寝不足になるはめになるのだが、、、、。

そしてこの時私には、編集部に連絡するなんて余裕はこれっぽちもなかったのだった。
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会議が始まるのは10月22日から25日。おばあちゃん達は21日から30日まで奄美大島に滞在する予定。私も会議前日の21日に奄美へ入り、友人とも顔をあわせてゆったりと構えるつもりだった。

しかし、奄美地方には前線が停滞。10月20日から激しい雨が降り続き、島はかつてない集中豪雨に見舞われていた。夜、ネットのニュースを見ると既に街は水の中。洪水になっている。でもまあ、何とかなるだろう。楽天的な私の頭には中止という文字はなかった。行けばきっと何かがある。

そして翌朝、いつものようにばたばたと家を出て、羽田に到着したのはなんとフライトぎりぎり。さらに航空会社を間違えて出発ロビーを走りぬけ、駆け込むようにチェックイン。スカイマークの神戸経由鹿児島行きになんとか滑り込んだのだった。やれやれ、また乗り遅れるところだったよ。実はこの月の頭に乗り遅れたばかりだったりする。遅刻魔もいい加減にしないと、ホントにやばい。フェリーやバスは待ってくれるけど、飛行機はさすがに無理だろうから(待たせたって人もいた気もしますが)。

そして飛行機は無事にテイクオフ。グレーの雲を抜けて太陽の下へと飛び出した。ふと見ると、飛行機の通路を挟んだ列に、同じ匂いがする人達がいる。あの二人も多分目的地は奄美だろう。今回もまた、楽しいつながりができそうだ。

雲の上は青空だったけど、雲から降りた神戸の空はグレー。やっぱり天気はまだ回復していない。それどころか、乗り換えでロビーに入ると、スカイマークの奄美行きは決行というアナウンス。TVには濁流が流れる奄美の様子が映し出されていた。

「奄美行きは欠航だよ。東京でもキャンセルしている人が結構いたなあ……。まあ普通はそうだよね」
同じ匂いがしていた二人のうちのひとり、男性の方が声をかけてくれた。彼の名前はヒロスケ君。今回の国際会議のボランティアスタッフ。
へーえ、キャンセルする人もいたんだ。そんなこと思いもしなかった。
ギリギリすぎた私は、奄美へ行けるかどうかを考える余裕もなかったんだよね。まあ、時間があってもきっと飛んでるけど。そうしている間にも、スタッフのヒロスケ君のところへはあちこちから電話がかかってきていた。
「おばあちゃん達は今日奄美へ行く予定だったけど、今日は飛べないんじゃないかな。名古屋から何人かスタッフが先発で来るかもしれないけど、行ってみないとわかんないなあ」
一緒にいたもうひとりはミーナ。彼女とヒロスケ君は友達だったけど、偶然空港であったらしい。ミーナが奄美行きを決めたのは2、3日前だったのだそう。私も9日前だったけど、私よりものんびりしてい人がいたとちょっと楽しくなった。私も当日前日じゃないと予定が決められない人だからなんだか仲間のような気分。

そして私たち3人は、迷うことなく鹿児島へ向かった。
どっちにしたって、行ってみなけりゃわからない。旅人のスピリットが心を前に向かわせていく。
奄美がダメになったとしても、何にもやらないで終わるわけがない。そんな確信があった。

鹿児島に着いたら、JALもスカイマークも欠航。私たちは今日のフライトをキャンセルして、明日の便に変更。東京や名古屋からやってくるボランティアスタッフ達を空港で待つことにした。そばを食べて足湯につかり、お茶をしながら待つこと数時間。夕方にはほぼ全員が集まって、ようやく宿へ移動できた。しかも、お金のない私たちは他のみなさんとは離れて、桜島のバックパッカーズへ。ここはボランティアスタッフのサンタくんの友達の紹介で見つかったところで、フェリー乗り場のすぐ近くにあって1泊1,000円。しかも、近くにはマグマ温泉アリ。最高のシチュエーションだ。

神様の粋なおはからいに感激しつつ、10人くらいでお世話になった。ここの主は沖縄からやって来たにいにいとねえねえ。温泉につかって、ねえねえのおいしいご飯を食べて、にいにいの歌を聴いて、みんなで雑魚寝。なんだか旅気分満喫で、気分は最高ー。

奄美の方はどうなっているんだろう? そんな不安が頭をよぎるけど、明日の予定は天気次第。全くわからないのだから、考えたって仕方がない。不安の中にいながらも楽しいことをシェアできる仲間がいるのはホントにありがたい。飛行機で二人に出会っていなかった今頃どうなっていたことか。そしてその後出会ったサンタ君やミノル君達も、すーっと馴染むように一緒にいられる。なんだか懐かしい仲間に出会った気分だった。

こうして、怒濤のごとく押し寄せてきた出会いに感謝しながら、桜島の夜はふけていった。
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伝統的な知恵を引き継いだ13人のおばあちゃん達がやってくる。それも世界のあちこちから。
そんな話を聞いたのは4月頃だった。

「ちょっとこれ読んで、内容を聞かせてくれない?」
そう言って手渡された一冊の本。お仕事をいただいていただいている旅行会社のボスは仕事の打ち合わせより先にこの本を差し出した。何でも主催者から、おばあちゃん達の日本での講演ツアーのコーディネートを相談されたようで、まずはどんな人達か読んで感想を聞かせてほしいとのこと。なんとなく、私が好きそうな話題だと思ったのだろう。おばあちゃんという言葉に既に反応していた私は、即OK。帰ると早速ページをめくった。

本の中には彼女達の暮らしと、これからの地球のための祈りが綴られていた。その内容の多くを理解できたかというとそうではないのだけど、なんだかものすごく魅かれている自分がいた。11月に奄美大島で開催される会議が、とても気になる。奄美は、日本のゴーギャンとも呼ばれる破天荒な絵描き・田村一村が画壇を離れて移住し、生涯を過ごした島。そして朝崎郁恵さんの島唄のように、今も伝統的な文化や芸能が伝わる島。祭礼も多く、信仰も厚いそうだ。しかしなぜだか私はいつも、どことなく怖さを感じていた。南国の青い空と海の中に、深い悲しみがあるような、常に低い波が流れている感じ。だけどなぜか、今回なら行けそうな気がしていた。

結局この話は諸事情あってツアーの仕事としては実現しない事になった。だけどなんだかとっても会いに行きたい。おばあちゃん達にも奄美大島にも。

まずは9月に富士山でホストグランマザーのクララさんがイベントをするというので、友人達と一緒に参加してみた。富士山麓のお寺で開催されたイベントには日本からのおばあちゃん達も集まり、和やかな雰囲気。聖なる日を見守りながら、日本の今までのことや未来へ伝えていきたいことが話し合われた。
富士山に参加したのは大好きな友人達との旅を楽しみたかったのと、これで気がおさまればラッキーと思ったからだったのだけど、結果的にはやっぱり、心はますますgo奄美。だけど同じ行くなら、ライターの端くれとしてはどこかの媒体で取り上げたい。それでいくつかの編集者の方にメールをして、取材にできないか聞いてみることにした。

ありがたいことにひとつの編集部がお返事をくれた。ラッキー! と早速とびついたものの、メールの中身を読んでみると、経費は支給なし。それでダメなら編集部で行くとのこと。……不況の出版業界、厳しいなあ。。。だけどこれはチャンス。逃すと大きい。一回だけギャラアップの交渉をしてみたが奇跡は起こりそうもない。結局その後すぐにOKのメールを出した。しかし、最近はどこも仕事が渋くなっている。こんな状況で私は食べていけるんだろうかと真剣に不安になるところだが……。まあ、いいか。ひとまず気分はあげておこう。行けるだけでもありがたい。

そんなこんなで早速準備をして奄美へ。
しかし、この旅、そう簡単に行けるようにはなっていなかった……。
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=加藤登紀子=

信念と情熱を、歌で、体で表現しながら力一杯生きている人。強くてしなやかな女性。
この人のパワーはどこからくるんだろうと、いつも驚かされる。

大学在籍中に歌手デビュー。学生運動華々しい頃、そのリーダーだった藤本敏夫氏と恋に落ちて獄中結婚。夫の理想実現をサポートして「鴨川自然王国」をつくり、夫亡き後は娘夫妻一緒に志を引き継ぎ、農的暮らしの情報発信を始めた。歌手活動の傍ら、WWFジャパン(世界自然保護基金日本委員会)評議員、UNEP(国連環境計画)親善大使としても活動。ブログやツイッターでも情報発信を欠かさない。とんがった活動と軟らかい思考回路を合わせ持った稀な人。若手ミュージシャンとの共演も多い。お気に入りのFunkistとは3年連続の共演だ。

母であり、おばあちゃんであり、歌手であり、活動家であり、社会へ働きかける人達のサポーター。

私は彼女に何度かインタビューさせてもらっているが、その度に「社会は変えられる。あなた達が変えていくのよ」というメッセージを受け取っている。農的暮らしをもとめる若い世代が農村を変える、社会をもっと楽しくする、地球をもっと幸せにする。しかも笑顔で。。。。そんな強い信念が伝わってくるのだ。

彼女はまた、こんなことも言っていた。怒りや戦いではなく、喜びや幸せをエネルギーにして動き始めた子どもたちの世代を見て、希望を感じていると。
そしてまたこのステージから、未来へ向けて歌いかけていた。


Revolution

碧い海に かこまれた
小さな国に 生まれ
ふりそそぐ光の ぬくもりの中で
平和な時代に育った

愛をはばむ 戦争もなく
飢えて死ぬ人もいない
捨てるほどのものに かこまれて
ほんとに欲しいものが みえない

400年前の森を 切りきざんで
砂浜や川や湖を コンクリートでかためて
生きものたちを 豊かさの
いけにえにしていく

気づかないうちに 何かが変わった
いとしいはずのものたちを
ふとしたはずみで 殺してしまえる
そんな息子たちが今 ふえている

生きてることは 愛することだと
ほんとは わかっているのに
自由なはずの 誰もかれもが
がんじがらめの とらわれ人なのか

La Revolution 夢ではなく
今一人きりで心にきめた
La Revolution 大事なこと
体中で感じるために
La Revolution ながされずに
愛するものを 抱きしめるために
La Revolution 夢ではなく
今たしかに 心に決めた
La Revolution
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=FUNKISUT=

第2回から参加してるFUNKIST。登紀子さんと憲法9条国際会議で競演したのがきっかけとなり、登紀子&Yae、サヨコオトナラ(一昨年はサヨコオトでしたが)の全回出演に次ぐ常連アーティストになっている。

ボーカルの染谷西郷さんは日本人の父と南アフリカ人の母を持ち、もうひとつの故郷・南アフリカへの思いを歌にして表現してきた。そして2009年8月には、ポール・コールマンさん、てんつくマンさん達が開催している「WONDERFUL WORLD 植林 FESTIVAL」の南アフリカでの植林ツアーにも協力。植林地を訪れライブを開催し、人種の垣根を越えて交流の輪をつくりあげた。

このイベントに来るとなぜかやさしい気持ちになるという彼ら。今年は田んぼも始め、初の田植え&稲刈りも体験したのだそうだ。こうやってみんな少しずつ、少しずつ、大地と会話を始めるんだろう。


Wonderful World

いつだって本当は 答えを探してたんだ
君に託す未来の 数式が解けなくて
この世界はなんなんだ? 奪い合い殺し合いの繰り返し
なのに君の小さな笑顔は そんな世界さえ照らしてしまうよ

もし君の心が枯れてしまっても大丈夫
何度でも一緒に涙の雨を降らせよう
だから 早く咲け君花

ワンダフルワールド 君と歩いた毎日は今僕の夢
いつまでも君の手をとって 歩いて行けたらいいな
ワンダフルワールド 喜びも悲しみも決めるのは君の心だぜ
誰かと比べるものじゃなく 君の心の中にあるもの
それがそうだよワンダフルワールド

太陽がこんなに眩しいのは 君の笑顔強く照らすため
暗闇がこんなに暗いのは いつの日か君に光り伝えるため

もし君の心が枯れてしまっても大丈夫
何度でも一緒に笑顔の苗を植えるよ
だから 早く咲け君花

ワンダフルワールド おはよう、おやすみ、ありがとう、さようなら
本当はその全てが 君への愛してるなんだ
ワンダフルワールド『幸せ』はいつも『当たり前』に姿を変え
失った時に気付いて 悔やんだ時にはもう届かなくて
それでも手をのばそうワンダフルワールド

この星は泣いている 僕らを抱いたまま
この星が歌う歌は 優しい歌ばかり
このままじゃ壊れちゃうよ 僕らはまた気付かないふり
僕らがなぜ泣いている 全てを与えられたまま
君と僕が出会った場所 君と二人歩いた道
君が愛したこの景色 僕らがなぜ泣いている

ワンダフルワールド まだ間に合うぜ今ならまだ届くぜ
ワンダフルワールド 当たり前の一日が今は愛しいんだよ

ワンダフルワールド 君と歩いた毎日は今僕の夢
いつまでも君の手を取って 歩いて行けたらいいなぁ

ワンダフルワールド まだ間に合うぜ
ワンダフルワールド まだ行けるだろ?
ワンダフルワールド
ワンダフルワールド 君は希望

ワンダフルワールド
ワンダフルワールド
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=Yae=

実行委員長のYaeさんは、すぐに裸足になってしまう人。
ステージに立つ彼女の足元を見てみると、やっぱり今年も裸足だった。

加藤登紀子さんと藤本敏夫さんの次女で、両親の理想とした暮らしを体現している彼女は、農家になる決意をした旦那さんと一緒に父の残した「鴨川自然王国」を引き継ぎ、田んぼ畑をしながら歌手活動をしている。
その暮らしは自然体。ひとり目の子どもが生まれたときから田んぼ畑はもちろん、ライブにも連れて歩き、母乳で育ててきた。

今では二人の男の子のお母さんがすっかり板についてきた感じ。フィナーレには2歳になる二番目の子をおんぶにだっこでステージに上がっていた。この子がよく食べよく遊ぶ元気な健康優良児。だっこしてステージに上がるのは大変だろうなあと思いながら、私は今年もシャッターを切っていた。

お母さんの登紀子さんもロックから民族音楽まで幅広い音のバックグラウンドを持っているが、Yaeさんの音のルーツも幅が広い。そして、日本の歌謡界で活躍してきた登紀子さんとは違う、インディーズ的な土の匂いのする曲づくりをしているのがおもしろい。ケルト、中東、ジプシー民謡などなど民族の香りがするものを混ぜ合わせ、楽器の生の音感を活かした音づくりをしている。血で歌うタイプのシンガー。

これはどこの言葉?と思うような歌を歌う一方で、自作の民謡を歌ったりもしている。
中には日本語の響きが美しい、叙情あふれる歌もある。
例えばこの曲は、懐かしい日本の田舎の風景が浮かび上がるようだ。


恋の花

そよふく風の色
何の色
君の頬 春の色
恋の色

やわらかな思い出よ
消えないで
最後の花びらを
惜しむかな

草まくらの匂い
懐かしき
君の髪の匂い
恋の花

遠くに見えるは
山の陰
遠くに聞こえるは
汽笛かな

茜色の空は
唇を
紅く染めてゆく
恋の花

やがて陽が落ちる頃
子供達の
笑い声 駆けてゆく
帰り道

最後の花びらを
惜しむかな
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